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※お断り: 当ブログ上に掲載する訳はあくまでも暫定訳であり、
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チェルノブイリの大惨事が突如発生してこの世界を一変させてから22年以上がすぎた。壊れた原子炉から排出された放射性物質(訳注1)が生きとし生けるものすべての上に降り注ぎ、わずか数日のあいだに、大気も水も、花も木も森も川も、そして海も、人間にとって脅威の源と化した。北半球全域で放射能が生活圏のほとんどを覆い尽くし、すべての生き物にとって潜在的な障害の発生源となった。
当然のことながら、事故直後、一般市民は非常に激しい反応を示し、原子力工学に対する不信をあらわにした。多くの国が原子力発電所の新規建設中止を決定した。チェルノブイリの害を緩和するのに巨額の費用が必要となったため、原子力発電はすぐに“高くつくもの”になった。こうした反応は、多くの国の政府、国際機関、原子力技術を担当する公的機関にとって都合が悪く、そのため、チェルノブイリ大惨事で直接傷害を負った人々の問題、また慢性的な放射線被曝が汚染地域の住民の健康に及ぼした影響にどう取り組むかをめぐって、ねじれた二極化が生じた。
立場が両極端に分かれてしまったために、低線量被曝(訳注2)が引き起こす放射線学・放射線生物学的現象について、客観的かつ包括的な研究を系統立てて行い、それによって起こりうる悪影響を予測し、その悪影響から可能な限り住民を守るための適切な対策をとる代わりに、原子力推進派は実際の放射性物質の放出量や放射線量、被害を受けた人々の罹病率に関するデータを統制し始めた。
放射線被曝に関連する疾患が明らかに増加して隠しきれなくなると、国を挙げて怖がった結果こうなったと説明して片づけようとした。それと同時に、現代の放射線生物学の概念のいくつかが突如変更された。たとえば、電離放射線と細胞分子構造のあいだのおもな相互作用の性質に関する基礎的な知見に反し、放射線の影響について「しきい値のない直線的効果モデル」(訳注3)を否定するキャンペーンが始まった。また、人間以外のいくつかの生物組織で観察された低線量被曝の影響によるホルミシス効果(訳注4)に基づいて、チェルノブイリ程度の線量は実は人間にも他のすべての生き物にも有益なのだと主張し始める科学者も出てきた。
この二極化は、チェルノブイリの炉心溶融(メルトダウン)(訳注5)から20年を迎えた2006年に頂点に達した。この頃には、何百万人もの人々の健康状態が悪化し、生活の質も低下していた。2006年4月、ウクライナのキエフで、二つの国際会議があまり離れていない会場で開催された。一方の主催者は原子力推進派、もう一方の主催者は、チェルノブイリ大惨事の被害者が実際にはどのような健康状態にあるかを懸念する多くの国際組織だった。前者の会議は、そのおそろしく楽観的な立場に当事者であるウクライナが異を唱え、今日に至るまで決議は合意に達していない。後者の会議は、広大な地域の放射能汚染が住民の健康に明らかに悪影響を及ぼしているという点で全会一致し、ヨーロッパ諸国では、この先何年にもわたって放射線による疾患のリスクは増大したまま減少することはないと予測した。
私はずっと考えてきたのだが、今こそ、一方にはテクノクラシー(訳注6)の信奉者、もう一方にはチェルノブイリの放射性降下物(訳注7)にさらされた人々に対する悪影響のリスクを判定する客観的かつ科学的手法の支持者、という対立に終止符を打つときがきている。リスクが小さくないと信じる根拠には強い説得力がある。
1986年以降の10年間に関してソビエト連邦とウクライナの政府委員会が作成した事故当時の文書が機密解除され、その中に、急性放射線症(訳注8)で病院に運ばれた多くの人々のデータが含まれていた。その数は、最近の公式文書に引用されたものより二桁多かった。放射線被曝によって病気になった人の数を数えるのにこれほどの違いがあることを、どう解釈すればいいのだろうか。医師の診断がみな誤診だったと考えるのは根拠がない。鼻咽頭の疾患が広がっていたことは、メルトダウン直後の10日間にすでに多くの人が知っていた。どれほどの量あるいは線量のホットパーティクル(訳注9)が鼻咽頭の上皮に付着して、この症候群を引き起こしたかはわからない。おそらく一般に認められている数字よりも高かったのだろう。
チェルノブイリの大惨事による被曝線量(訳注10)を年間通算で推計するには、地表および樹木の葉に降下した放射性物質による被曝を考慮することが決定的に重要である。こうした放射性降下物に含まれた半減期(訳注11)の短い放射性核種(訳注12)が、さまざまな形の食品を汚染した。これらの核種のうち、いくつかの放射能値は、1987年になってもなお、セシウム137(Cs-137)やストロンチウム90(Sr-90)による汚染を上回っていた。したがって、セシウム137の線量尺度のみに基づいて被曝線量を算出する取り決めでは、実際の累積実効線量(訳注13)を明らかに過小評価することにつながる。内部被曝(訳注14)線量は、さまざまな地域で牛乳とジャガイモの放射能に基づいて規定された。ウクライナ領内のポレーシェ(湿原地帯)(訳注15)では、消費される食品のかなりの割合をきのこ類など森の収穫物が占めているが、その放射能は考慮されなかった。
細胞遺伝学的な効果を及ぼす生物学的効率は、外部放射線被曝と内部放射線被曝とで異なる。内部被曝のほうが大きな損傷を与えるが、これもまた無視された事実の一つだ。したがって、特に原子炉事故直後の一年に関し、被曝線量が適切に推計されていないと考えることには根拠がある。この結論は、大惨事後20年間の罹病率の増加に関するデータによって裏づけられる。何よりもまず、子どもの悪性甲状腺疾患に関して非常に具体的なデータがあり、これについては、病気の主因として「放射能恐怖症」説を支持する陣営でさえ否定していない。時が経つにつれて、潜伏期間の長い腫瘍性疾患、とりわけ乳ガンや肺ガンが増加した。
また、年とともに(放射線に起因すると考えられる)非悪性疾患(訳注16)が増加して、チェルノブイリ大惨事の被害を受けた地域の子どもの罹病率全体が高くなり、「実質的に健康と言える子ども」の割合が減り続けている。たとえばウクライナのキエフでは、メルトダウン前は90パーセントの子どもが健康とみなされていたが、現在その数字は20パーセントである。ウクライナ領内のポレーシェの一部では、健康と言えるような子どもは存在せず、事実上すべての年齢層で罹病率が上がっている。疾病の発生頻度は、チェルノブイリの事故以来、数倍になっている。心臓発作や虚血性疾患が増え、心臓血管系疾患が増加していることは明らかだ。これにともなって平均寿命が短くなっている。子どもと成人の両方で中枢神経系の疾患が懸念材料である。目の病気、特に白内障の発生数が急増している。強い懸念材料として、妊娠の合併症と、いわゆる「リクビダートル(チェルノブイリ事故処理作業従事者)」の子ども、および放射性核種高汚染地帯からの避難者の子どもの健康状態が挙げられる。
こうした説得力のあるデータがありながら、原子力エネルギー擁護派の一部はもっともらしさを装い、放射線が住民に及ぼした明らかな悪影響を否定している。実際に、医学や生物学に関する研究への資金提供をほぼ全面的に拒否したり、「チェルノブイリ問題」を担当していた政府組織を解体したりすることさえある。また原子力ロビーの圧力の下、官僚が学術専門要員をチェルノブイリに由来する問題の研究からはずして異動させた例もある。
生物学および医学の急速な進歩は、慢性的な核放射線被曝によって引き起こされる多くの疾病をいかに防ぐかを見出すうえで希望の源である。ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの科学者と医師がチェルノブイリの大惨事後に獲得した経験を踏まえたならば、そうした研究ははるかに急速に進むはずだ。今日私たちに開かれている機会を逃すことは大きな過ちだろう。私たちは、偏りのない客観性が勝利を収め、その結果としてチェルノブイリ大惨事が人と生物多様性に及ぼした影響を見きわめようとする努力に全面的な支持が寄せられ、さらには私たちが今後、技術の進歩と、広く道義を重んずる態度とを身につけていく際、そうした客観性がよるべとなる――そんな日を目指さなければならない。その日が来ることを待ち望み、信じなければならない。
本書はおそらく、チェルノブイリが人々の健康と環境に及ぼした悪影響に関するデータを、もっとも多く広く包括的に集めたものである。本書の報告には、そうした悪影響は減少するどころか増大しており、将来にわたって増え続けることが示されている。本書の主たる結論は、「チェルノブイリを忘れる」ことは不可能であり、また間違っているということである。この先幾世代にもわたって、人々の健康も自然の健全性も悪影響を受け続けることになるだろう。
ディミトロ・M・グロジンスキー教授(生物学博士)
ウクライナ国立科学アカデミー一般生物学部長
ウクライナ国立放射線被曝防護委員会委員長
ウクライナ国立科学アカデミー一般生物学部長
ウクライナ国立放射線被曝防護委員会委員長
< 訳注 >
1. 放射性物質: 放射能をもつ(放射線を出す)原子を含む物質。自然に存在する放射性原子や、人工的に作られる放射線原子がある。放射性原子の構造は不安定で、放射線を出してより安定した状態になろうとする。放射線を出して(このとき核分裂を伴うこともある)安定に向かうことを崩壊という。崩壊の種類にはα崩壊やβ崩壊などがある。なお、一つひとつの原子についていつ放射線を出すかは分からない。多数の放射性原子の集団から出る放射線の量が半分になる時期を半減期という。
2. 低線量被曝: 低い放射線量による被曝。被曝の影響は吸収された放射線の量だけでなく、放射線の種類やエネルギーによっても異なる。
3. しきい値のない直線的効果モデル: LNTモデル。ガンや白血病などの発生確率は放射線の量に比例し、低線量の被曝でもこれ以下ならばガンや白血病がでないという境界の線量(しきい値)はないとする考え。ICRPは1977年に、人間の健康を護るために放射線を管理するにはもっとも合理的なモデルとして採用した。
※ しきい値: 放射線被曝の影響がそれ以下ならば出ないという境界の線量。
4. ホルミシス効果: ホルミシス説。低線量の被曝にもしきい値があり、大量に受ければ健康に害があってもごく微量であれば返って健康に良いとする説。科学的根拠はないとされている。
5. 炉心溶融(メルトダウン): 核分裂連鎖反応が急速に進んだり原子炉を冷やす冷却材が失われるなどの理由で、原子炉の温度が上がりすぎて炉心(放射性物質の巨大な塊)が溶ける深刻な事態のこと。歴史的に見て、溶融した炉心の核反応は制御し難く、核爆発にいたることもあり、核物質が周囲の環境に拡散する。
6. テクノクラシー: 技術官僚(テクノクラート)が強力な影響を持つ、あるいは支配する体制のこと。近代国家の戦争や国威発揚、経済競争に科学の成果は決定的な貢献をした。科学者を独占的に支配した官僚集団をテクノクラートという。技術官僚自身は高度の専門科学者ではなく、政策に協力する科学者の質や量や設備の拡充を推進する。
7. 放射性降下物 : フォールアウトまたは“死の灰”とも呼ばれる。核爆発や核事故により発生した原子雲や火球などには放射性粒子が含まれている。放射性物質を含んで落下してくるそれらの塵埃や水滴などを放射性降下物という。
8. 急性放射線症 : 被曝後すぐ、おおむね数日ないし3週間以内、遅くとも2~3ヵ月以内(急性期)に現れる嘔吐、白血球減少、小腸出血、脱毛などの症状。症状の重篤度は概ね被曝量と相関する。急性障害は一定の被曝線量(しきい値)を超えると、ほぼ確実に出現する。このような急性障害は確定的障害に属する。
9. ホットパーティクル: 核燃料の断片のこと。高放射性粒子ともいう。空気中に塵となって舞うこの高い放射能を帯びた粒子が肺に入ると、体内に吸収されや健康に深刻なダメージを与える。
10. 被曝線量: 人体が曝された放射線の線量。放射線に曝された線量すなわち吸収線量の単位はグレイ(Gy)だが、放射線の種類によって生物に与える影響が異なり線量だけでは言い表せないので、等価線量シーベルトになおすには生物効果の係数をかける。エックス線、ガンマ線、ベータ線は 1グレイ=1シーベルト、中性子線は1グレイ=5から20シーベルト、アルファ線は 1グレイ=20シーベルト。
11. 半減期: あるものの量がはじめの2分の1になるのに要する時間を半減期という。放射性核種から放出される放射線の物理的な半減期は、核種により異なり、たとえばヨウ素131は約8日、セシウム137は約30年である。生物学的半減期とは体内に蓄積した放射性核種から出る放射能の量が半分になる時間を言う。生物学的半減期は排泄によって物理的半減期より短いが、短さは物質によって異なる。
12. 放射性核種: 放射能を持つ核種のこと。原発の事故ではウランやプルトニウムやそれらの核分裂によって生じたさまざまな放射性核種が環境中に放出される。放射能をもたない核種のことは安定核種という。
13. 累積実効線量: 放射線被曝による影響は臓器や組織ごとに異なるということを考慮して算出した実効線量を、1年間(年度)ごとに合計した値。
※ 実効線量: 放射線被曝による全身の健康障害を評価する尺度の一つ。放射線照射の影響は臓器や組織ごとに異なるが、それらを考慮した算出方法である。単位はシーベルト(Sv)を用いる。
14. 内部被曝: 食物や塵埃などを通して体内に取り込んだ放射性物質が出す放射線による被曝。体内被曝とも言う。殆どの場合、除染はきわめて困難であり、健康への影響が大きい。骨髄に集積した放射線物質は放射線に感受性の高い造血臓器からの発癌確率を増大させる。
15. ポレーシェ: ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの三国にまたがる広大な湿地帯(湖沼地帯)の名称。ポレーシェとはロシア語で湿地帯の意。チェルノブイリ原子力発電所はこのポレーシェのウクライナ側に位置している。水資源にめぐまれ、豊かな自然が広がる農村地帯だったが、事故で一帯が濃い放射能に汚染され、広い範囲が立ち入り禁止区域や危険区域に指定されている。ウクライナとベラルーシにはそれぞれ原語での呼称があるが便宜上ロシア語読みに統一した。
16. 非悪性疾患: 死を来す可能性のあるガンなどの悪性腫瘍疾患ではなく、肺炎や糖尿病といった感染・代謝・循環などの疾患一般のこと。
<< 訂正 >>
※9月1日、下記の箇所を訂正しました。
[9段落目]
・細胞発生への影響が生物学的にどのような効率で起こるかは、外部放射線被曝と内部放射線被曝とで異なる。→ 細胞遺伝学的な効果に及ぼす生物学的効率は、外部放射線被曝と内部放射線被曝とで異なる。
(原文:The biological efficiency of cytogenic effects varies depending on whether the radiation is external or internal)について、原文の "cytogenic" は "cytogenetic(細胞遺伝学的)" の誤植であったことが判明したため、訳文を「細胞遺伝学的な効果を及ぼす生物学的効率は、 外部放射線被曝と内部放射線被曝とで異なる」と改めました。